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TOPICS #01 GO-DIE-GO, we're still walking on !

                                                                 by Y. Takasaki

  ゴダイゴは1976年にデビュー、日本を中心に活動したポップ/ロック・バンドである。1979年には「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」等の大ヒットでブレイクし、日本のヒットチャートに英語の歌詞を取り入れた曲を何曲も送り込み、しかもそれが小学生等の子供達に支持されるという特異な現象を生み出した。1985年に解散するが、1999年のリユニオンを経て、2006年に活動を再開、現在もマイペースの活動を続けている。

 

-1967 -1967 -1967 -1967 -1967 -1967 -1967 -1967 -1967 -1967
 ゴダイゴを語る上でまず最初に挙げるべきなのはリーダーのミッキー吉野である。 ミッキーは横浜出身で、中学生の頃から米軍キャンプ等で演奏しており、1968年にグループ・サウンズ (GS)の中でも演奏力の高さで知られた「ザ・ゴールデン・カップス」にキーボーディストとして加入、プロとしてのキャリアを開始する。 ゴールデン・カップスではヒット性の強い「愛する君に」から、ロック・バンドとしての表現力を如何なく発揮した「スーパー・ライヴ・セッション」、そしてテープ編集を駆使したアーティスティックなアルバム「フィフス・ジェネレーション」に至るまで、中〜後期カップスの音楽的なキーパーソンとして活躍した。 
 71年、ミッキーはバークリー音楽大学に留学、ジャズを中心にピアノとアレンジのクラスを取り、地元のバンド「フレッシュ・アンド・ブラッド」で音楽活動を行う。 横浜時代の音楽仲間であったスティーヴ・フォックスとアメリカで邂逅、ボストン・エリアで人気バンドとなるが、ミッキーは日本を活動の中心として世界に出て行くことを夢見て、スティーヴと”ゴダイゴ”の構想を温めていた。 74年の帰国後、ミッキーは「ミッキー吉野グループ」を結成、郡山のワン・ステップ・フェスティバルや西武劇場(今のPARCO)のフラッシュ・コンサートに出演し、聴衆に強い印象を与えることとなった。
 その後スティーヴもミッキーを追うように帰国してグループに参加、彼等は新進シンガー・ソング・ライターとしてデビューしたばかりのタケカワユキヒデのサポートを務めることになる。
 タケカワは1975年にアルバム「走り去るロマン」でデビュー、一部のロック誌でその新鮮さが注目されていた。このアルバムにはミッキーが参加しており、アルバム発売を受けて行われたタケカワユキヒデのソロ・ツアー(タケカワユキヒデ・リサイタル「走り去るロマン」)はミッキー吉野グループが演奏を担当することになった。 そしてここでミッキーは、ニュー・ロック伝説のバンド「The M」のギタリストとして知られていた浅野孝已をバンドに誘い、ここにゴダイゴの母体が出来ることとなる。  75年夏、ミッキー吉野グループは井上堯之バンドとジョイントで沢田研二の全国ツアーをサポートし、タケカワもCMソングを2枚シングルでリリースする等それぞれの活動を進める。 しかしジュリーのツアーではタケカワの曲も取り上げられ、タケカワのCMソングはミッキー吉野グループが演奏 、またミッキー吉野グループが演奏を務めた花柳幻舟の「残・曽根崎心中」にタケカワがヴォーカルで参加する等、流れはひとつに収束しつつあった。
走り去るロマン
タケカワユキヒデ
「走り去るロマン
 75年秋、タケカワユキヒデは2ndアルバム「新創世紀」の製作に着手、演奏にはミッキー吉野グループが参加する。この制作過程の中で、ミッキーはタケカワとバンドを結成することを意識し、タケカワもこれに同意する。 ミッキー、タケカワ、浅野、スティーヴ、そしてドラマーには浅野の実弟である浅野良治が参加して、76年1月に「想い出を君に託そう」と「僕のサラダガール」を録音、アルバム「組曲:新創世紀」は完成する。

  ミッキーはこの時ついに彼がずっと温めていた「ゴダイゴ」(GO-DIE-GO:死ぬまでやろう)の名前を使うことを決める。これが日本のロック史の中で今も独特の存在感を発揮しているバンド「ゴダイゴ」の誕生となる。  

 

ゴダイゴ(組曲:新創世紀)

「ゴダイゴ(組曲:新創世紀)」

 ゴダイゴは76年4月1日に日本コロムビアよりシングル「僕のサラダガール」をリリースしてレコード・デビュー。本作はカネボウのキャンペーン・ソングとして製作され、約8千枚のセールスと好調な滑り出しだった。
 そして同年7月にはデビュー・アルバム「ゴダイゴ(組曲:新創世紀)」がリリースされた。タケカワがアマチュア時代から温めていた組曲のアイディアが、ミッキー吉野グループという技術的な裏付けを得て、ここに開花した。
僕のサラダガール
「僕のサラダガール」
 ミッキー吉野は、ザ・ゴールデン・カップス時代に当時のジャズ喫茶等で多くのライヴ演奏をしたものの、なかなかクリエイティヴな音楽製作に繋げられなかった反省を踏まえ、ゴダイゴでは自身のレコーディングに加え他のアーティストのバッキングやCM・劇伴等を通し、ゴダイゴの「サウンド」を浸透させることを活動の中心においた。 代表的なものとしては、76年のNHK「男たちの旅路」や日本テレビの「いろはの”い”」、山内テツの「ききょう」やエディ藩の「ベイサイド・スウィンガー」等が挙げられる。 バンドの最初の転機は結成から1年経った77年1月で、ドラマーの浅野良治が脱退する。 制作中の東宝映画「ハウス」のサウンドトラック「ハウスのテーマ」(サントラ・シングル「ハウスのふたり」のB面に収録)が最後のレコーディングとなった。
いろはの"い"
OST 「いろはの"い"
男たちの旅路
OST 「男たちの旅路」

ハウスの二人
OSTシングル 「ハウスのふたり」

後任のドラマーにはミッキーのバークリー時代の友人であったトミー・スナイダーが加入することが決まる。 77年3月のトミーの参加はバンドの方向性に転機をもたらすことになる。彼のドラミングは、フィルインを多用したアグレッシブなスタイルで、ミッキー吉野は後に「やっぱりビートが違うわけですよ。それで今まで自分が弾けなかったようなものも、できるようになった。あの辺りから(全体の)音もバカッと良くなりだした。」と語っている。 また、トミーはヴォーカルも取り、ソングライティングにも積極的でバンドに様々なアイディアをもたらした。例えば、トミー加入後、ゴダイゴは意欲的な組曲「ゴダイゴ号の冒険」を制作している。
そして77年1月には、ファンの間ではゴダイゴのベスト・アルバムとも言われる「デッド・エンド」がリリースされる。  
  「デッド・エンド」は、当時ニューヨークを震撼させた連続殺人事件「サムの息子」を取り上げるなど、当時の行き詰った社会情勢を反映したものだった。また、ミッキーは当時の日本の音楽を巡る環境をどう変えていくかで煮詰まっていたから「デッド・エンド(袋小路)」だったとも語っている。   このアルバムでは、スティーヴ・フォックスとトミー・スナイダーのリズム・セクションにミッキー吉野がピアノ、オルガン、シンセ、メロトロン等のキーボードを使い分け、浅野孝已はシャープなカッティングに加えて当時ローランドが開発中だったギター・シンセサイザーを使用する等、ソリッドなサウンドを展開している。
デッド・エンド
「デッド・エンド
 初期のゴダイゴを語る上でキーワードとなるのが、「プロジェクト・チーム」という言葉である。ひとつひとつのテーマについて、「プロジェクト」として取り組むことで新しい可能性を見つけるというもので、そのテーマに応じて参加する面々も異なる場合がある。例えば、タケカワが作曲で起用されることもあれば、タケカワ以外のメンバーが演奏だけで参加する場合もある。テレビ音楽や映画のサントラ、CM製作、他のアーティストへの曲提供や演奏、そしてゴダイゴ名義でのレコード製作やコンサート、イベントへの出演と、全てが「プロジェクト・ゴダイゴ」としての活動と位置付けられていた。
 77年〜78年前半にかけての「プロジェクト・ゴダイゴ」の活動は多岐に渡る。劇伴として大林宣彦監督の「ハウス」やサンリオの「キタキツネ物語」のサントラ、サッカーの神様「ペレ」の引退試合や全米学生フットボールの公式戦(ミラージュ・ボウル)前夜祭、そしてチャーや竹田和夫が出演した「3大ギタリスト夢の競演」等にも出演する。  
ハウス
OST 「ハウス」
キタキツネ物語
OST 「キタキツネ物語」
  中でも77年秋に英国BBCで放映された日本テレビ系のドラマ「水滸伝」の主題歌(英語版)をゴダイゴが担当し全英チャート最高位第37位のヒットとなったことと、78年1月にそれまでのCM音楽制作の集大成として「CMソング・グラフィティ ゴダイゴ・スーパー・ヒッツ」がリリースされたことは特筆すべきであろう。 CMソング・グラフィティは、CM素材そのままではなく新たにレコーディングし直されたものも含まれており、当時のゴダイゴのアイディアと演奏力が凝縮された「スーパーヒッツ!」の名に恥じないものだった。
  「水滸伝のテーマ」のイギリスでのヒットを受け、78年3月にはアルバム「新創世紀」から「僕のサラダガール」を「水滸伝のテーマ」に差し替えたものが「Water Margin(水滸伝)」としてイギリスでリリース(サトリル)され、後に西ドイツやフランスでも発売されることになった。
CMソング・グラフィティ
「CMソング・グラフィティ」
西遊記
「西遊記」
 78年はゴダイゴの活動の大きな転機となった年である。78年6月末から9月にかけてはゴダイゴはとの全国ツアー「Char Super Concert with Godiego in Summer」を行い、ここでゴダイゴは初めて日本武道館のステージに立つことになった。78年10月25日はアルバム「西遊記」がリリースされ、同アルバムがサウンドトラックとしてフィーチュアされたドラマ「西遊記」(日本テレビ/主演:堺正章・夏目雅子)の放送も開始された。オープニング・テーマの「モンキー・マジック」は英語詞だが、エンディング・テーマの「ガンダーラ」は日本語版が使用された。ドラマは大ヒットし、ゴダイゴの音楽も一躍注目された。「ガンダーラ」の不思議なメロディ・ラインに日本語と英語の入り混じった歌詞は人々の耳を捉え、ここからゴダイゴの人気がブレイクしていった。ガンダーラに続いてリリースされたシングル「モンキー・マジック」は、ガンダーラとは打って変わってファンキーな演奏に外国人混じりの全編英語歌詞という「音」としてのインパクトに加え、エキゾチックなコスチューム、銅鑼や蜘蛛の糸等のヴィジュアル的なパフォーマンスも受けて、ゴダイゴは一気に人気バンドとなった(ガンダーラは発売当時89万枚、モンキー・マジック (79年リリース)は54万枚)。
ガンダーラ
「ガンダーラ」
モンキー・マジック
「モンキー・マジック」
 モンキー・マジックは全部英語詞であり、これがベストテンに入るほどの大ヒットとなったのは、当時としては極めて異例な出来事だった。
 続く79年はゴダイゴ・ブームが日本を席巻する年となった。まず、ユニセフの国際児童年のキャンペーン・ソングとして制作された「ビューティフル・ネーム」が1日3回NHKで放映されることになり、「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」に続くシングルとしてヒット、「ザ・ベストテン」等の音楽番組を毎週にぎわすこととなった。 3月に開始された全国43箇所を回る「セレブレイション・ツアー」も好調で、4月8日の日比谷野外音楽堂では、大雨の中7千人の観客を動員した熱気あふれるライヴとなった。
アワー・ディケイド
「アワー・ディケイド」
 ツアーやテレビ出演等スケジュールが過密になる中、ゴダイゴはレコーディングにも力をいれ、ミッキー吉野がゴダイゴのベスト・アルバムに挙げる「アワー・ディケイド」が制作された。 79年6月25日にリリースされたこのアルバムはアレンジャーとしてのミッキーのアイディアやこだわりが随所に散りばめられたもので、ギターやキーボードのソロも含め緻密に計算されたサウンドとなっている。79年のツアーでよく演奏された曲が多数あることから、当時のファンには馴染みの深いアルバムとなった。
シングルも「ビューティフル・ネーム」、タケカワユキヒデ名義での「ハピネス」、松本零士原作のアニメ映画「銀河鉄道999」とヒットは続き、CMも含めると毎日ゴダイゴの曲がテレビから流れないことはないという くらいだった。
ビューティフル・ネーム
「ビューティフル・ネーム」
銀河鉄道999
「銀河鉄道999」
 8月には前年に引き続き日本テレビの「24時間テレビ〜愛は 地球を救う」にオープニング・アクトとして参加、前年より演奏曲目も大幅に増え、「マジック・カプセル」や「組曲:威風堂々」等で圧倒的なパフォーマンスを披露した。

  10月にはブレイクのきっかけとなった日本テレビのドラマ「西遊記」の続編も始まり、ゴダイゴは引き続きサウンドトラックを担当、新主題歌の「ホーリー・アンド・ブライト」もシングル・リリースされた。 特に小学生〜中学生の人気はすさまじく、メンバー達も戸惑うほどのアイドル的な人気だった。

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 79年の快進撃はライヴをも活性化させた。 春のセレブレイション・ツアーは要所でホーン・セクションが起用され、8月にはゴダイゴ・ホーンズとしてメンバーも固定、ミッキー吉野のアレンジの幅を広げることとなった。春から夏のツアーではライヴ録音も行われ、これは79年10月リリースのゴダイゴ初のライヴ・アルバム「マジック・カプセル」となる。

また、8月の晴海国際貿易センターでのコンサート等夏のツアーの映像と「マジック・カプセル」という曲が創られる過程やメンバーのプライベートな映像を収めた映画「マジック・カプセル」も制作され、映画館で公開された。 そして、79年を締めくくるコンサートは12月19日に行われた日本武道館での演奏で、この時の映像の一部はテレビ(TBS)でも放映された。 一年通してヒットを連発し、国際児童年のテーマも担当したゴダイゴは当然の如く大晦日のNHK「紅白歌合戦」に出演、79年は大成功のうちに終わった。
マジック・カプセル

「マジック・カプセル」

 80年に入るとゴダイゴは「新しい体験と再発見の旅」というテーマで海外を回り、ドキュメンタリー映画の制作を始める。 2月初に日本を離れゴダイゴはネパールに向かい、2月7日にカトマンズ市のネパール王立競技場で6万人の観衆を前に同国初のロック・コンサートを行った。
ネパールでのコンサートは6万人という当時ではまずあり得ない大観衆でのコンサートであり、また「ゴダイゴ」を知らない聴衆に何処まで音楽が通用するかというメンバー達にとっては緊張感に満ちたものであったこともあり、タケカワは後のインタビューで「みんなあれで一気に大きくなった」と語っている。

 しかし、この頃スティーヴ・フォックスは牧師になる決心を固めており、3月19日に神戸で行われた「ポートピア1年前記念式典」を最後にバンドを離れることとなった。春のツアーは富倉安生をサポートに迎え行われたが、同年8月にミュージカル「ヘアー」に参加していたギタリスト吉澤洋治がベーシストとして加わることになった。
 
カトマンドゥー

「カトマンドゥー」

 シルクロードでの体験を踏まえ制作され1980年10月1日にリリースされたアルバム「カトマンドゥー」は、タイトル曲のみスティーヴ・フォックス在籍時の録音でそれ以外は吉澤加入後の演奏となった。
シルクロードで撮影した映画は81年にパイオニアのレーザーディスク第一弾として、「ゴダイゴ・オン・シルクロード <インド・ネパール>」と「ゴダイゴ・オン・シルクロード <トルコ・イラン>」の2枚のディスクで発売された。

  80年10月には、海外での大きなイベントが二つ行われた。 一つ目は、10月11・12日の2日間に渡って行われたロス・アンジェルス市のシヴィック・センターで行われた市制200周年記念のイベント「ストリート・シーン」への出演で、二つ目は10月22・23日には中国・天津市の天津第一工人文化宮で開催された「第1回中日友好音楽祭」への出演である。 後者は中国初のロック・コンサートということで日中それぞれのテレビで放映された他、ライヴ・アルバム「中国 后醍醐」として同年12月25日にリリースされた。
M.O.R.
「M.O.R.
  続く81年のアルバム「M.O.R.」は従来のアルバム毎にコンセプトを決めるというスタイルを離れ、アメリカン・ポップ・スタイルの演奏と歌詞で楽しいアルバムとなった。また、同年は「CMソング・グラフィティ」の続編となる「CMソング・グラフィティVol.2」をリリースする。
 81年以降もゴダイゴは全国を精力的にツアーするが、徐々にメンバーのソロ活動も目立つようになった。 この時期の方向性として顕著なのは音楽制作へのコンピューターの導入である。 83年の東京ディズニーランド開園時に「トゥモロウ・ランド」のテーマ曲として制作した「トゥモロウ(ディズニーランド組曲)」はDMXのドラムマシンをメインにしたサウンドで、トミー・スナイダーはシンバルやスネアの一部しか演奏していない。

CMソング・グラフィティ Vol.2
「CMソング・グラフィティ Vol.2」
フラワー
「フラワー
  83年9月には、1年半振りのシングル「キャリー・ラヴ」がリリースされる。また83年秋に横浜・山手に ゴダイゴ・スタジオが完成、ローランドのジュピターやメロトロン等のシンセサイザーからDMX等打ち込み系までカバーする音楽環境が整う。ミッキーだけでなくタケカワユキヒデもコンピューターに目覚め、タケカワはデモ・テープは勿論後にはアルバム制作からライヴ演奏までコンピューターをメインに据える傾倒ぶりを見せる。 84年初リリースのアルバム「フラワー」はこうした状況の中レコーディングが行われたため、ドラムスもDMXを多用、デジタル・シンセのきらびやかな音がフィーチュアされている。 
平和組曲
インターミッション前の
ラスト・シングル「キャリー・ラヴ」
 84年にはコンサート活動が行われなかったが、唯一行われたのがオーストラリアのコンサートである。 日本テレビの「西遊記」はイギリスBBCでも放映されて人気を博したが、84年にはオーストラリアでも放映され、人気番組となる。そしてサントラ・アルバムが「MAGIC MONKEY」としてリリースされることになり、メルボルンで開かれるイベント「ロイヤル・メルボルン・ショー」にゴダイゴがゲストとして呼ばれることとなったものである。
 84年後半にはライヴ・アルバム「平和組曲」がリリースされる。冒頭にはファンの間で絶大な支持を受けている「組曲:威風堂々」が「平和組曲」の名前で収録されている。この曲はイギリスの作曲家エドワード・エルガーの「組曲 威風堂々 第1番」の主題をモチーフにゴダイゴがメロディを書き足して制作したもので、ここで聴くことができるのは79年の「マジック・カプセル」に収録予定だったスティーヴ在籍時の音源である。それ以外の音源は吉澤加入後の演奏だが、初期のレパートリーを含めレコード未収録の名曲をライヴ演奏したファンには貴重なレコードとなった。
平和組曲
「平和組曲
ワン・ディメンション・マン
「ワン・ディメンション・マン」
 84年11月にリリースされた「ワン・ディメンション・マン」は哲学的な要素を織り込んだ歌詞と従来とは作曲のスタイルを大きく変えたタケカワのメロディ・ラインから、ゴダイゴのアルバムの中でも個性の強いものとなった。 同アルバムのリリース後、85年春のゴダイゴ・コンサートの予定が発表される。そして、そのチケットには「ゴダイゴ・ファイナル・ツアー」と刷り込まれており、ファンに衝撃を与えた。 翌85年4月、東京・新宿厚生年金会館から始まり名古屋、大阪を回るツアーは4月20日の京都会館第一ホールでの公演をもって終了する。

  初日の新宿厚生年金会館での演奏は、ビデオ(LD)とライヴ盤で「インターミッション」としてリリースされた。 
インターミッション
「インターミッション
 85年以降、メンバーはそれぞれの活動を行っていた。 伝説のバンドとして、再評価の機会の都度再結成が囁かれていたが、99年6月、ついにゴダイゴの「期間限定」再結成が発表される。メンバーはブレイク時の5人、ミッキー吉野、タケカワユキヒデ、浅野孝己、スティーヴ・フォックス、トミー・スナイダーで、スティーヴは80年初の脱退以来実に20年振りにゴダイゴに合流することとなった。
ホワット・ア・ビューティフル・ネーム
1985年以来となったアルバム
「ホワット・ア・ビューティフル・ネーム
 再結成ゴダイゴは99年10月にアルバム「ホワット・ア・ビューティフル・ネーム」を、そして翌11月5日にはシングル「JAVA WA JAVA」をリリースし、11月19日の神奈川県民ホールを皮切りに全国12ケ所のツアーを行った。
  このアルバムでは、サンプリングも含めギター・サウンドがフィーチュアされ、スティーヴやトミーのヴォーカル曲、タケカワとトミーのデュエット等、活動停止以来15年を経てメンバーそれぞれの個性をプッシュする試みが随所に見られた。ソング・ライティングにもトミーはもちろん、浅野やスティーヴが携わる等従来のゴダイゴにはなかったスタイルが取られていた。
  ライヴにおいても、浅野孝已が曲毎にギターを取り替える等ビジュアル的にもギターを前面に出した他、トミー・スナイダーがソウルフルな声を聞かせる等、新生ゴダイゴを印象付ける変化が随所に見うけられた。
JAVA WA JAVA
期間限定再結成シングル
「JAVA WA JAVA」

ポップ・アート・ミュージック

ゴダイゴ ジャパン・ツアー'99
 再結成ゴダイゴはテレビ番組にも積極的に出演、99年末には80年のポートピア以来となるNHK「紅白歌合戦」にも出演、「ビューティフル・ネーム」を新たなアレンジで演奏した。 再結成ツアーは2000年に入っても西日本を中心に行われ、伝説の名曲「平和組曲(組曲:威風堂々)が演奏され、ファンの熱い歓声を浴びた。

  そして7月22日、山田プロデューサーの郷里である大牟田「大蛇山」まつり」への出演をもって、20世紀末の「期間限定」再結成は幕を閉じた。 99年の新宿厚生年金会館でのコンサートは、「ゴダイゴ ジャパン・ツアー '99」としてビデオ・リリースされた。
   その後、ゴダイゴのメンバーはそれぞれの活動に戻ることとなったが、メンバーそれぞれの交流はコンスタントに続き、2006年5月、ゴダイゴは活動を本格的に再開する。奈良 東大寺でコンサートを行い、ユニバーサルからシングル「モンキー・マジック2006」をリリースする。トミーがフランス在住、そしてスティーヴが京都と活動の拠点が分かれているため、年数回と極めてマイペースながら、期間限定ではなく、パーマネントなバンドとしてゴダイゴは復活した。
ゴダイゴ in Todaiji
「ゴダイゴ in Todaiji
Monkey Magic 2006
「Monkey Magic 2006
2007 TOKYO 新創世紀
「2007 TOKYO 新創世紀
 東大寺でのライヴはDVDでリリースされ、翌2007年から3年間は、東京芸術劇場で「TOKYO 新創世紀」と題した、演劇的な要素を盛り込んだ音楽ドラマを上演、特に初年はファースト・アルバム「ゴダイゴ(組曲:新創世紀)」をモチーフに、ゲストとしてジェニファー・バトン(g)、日野賢二(b)、ヒダノ修一(和太鼓)等多彩なゲストを迎え、既存の「ゴダイゴ」のフォーマットに囚われないドラマティックなステージを展開した。  2008年の芸術劇場での2回目のイベントでは、セカンド・アルバム「Dead End」が採り上げられ、ここでは吉澤洋治がギターで参加する等、ゴダイゴの歴史を新しい形で再現する試みが行われた。
  そして2009年の3回目のイベントではゴダイゴの初期にライヴでのみ聞くことの出来た音楽劇「ゴダイゴ号の冒険」を再現、3部作は大団円を迎えた。


                                                                    

 シングルは、第一弾の「Monkey Magic 2006」では全部韓国語詞のミッキーのナンバー「HANSANG SALANG HYEYO」が収録されており、また第二弾の「ワン・フォー・エブリワン」では浅野孝已作曲の「君の為に〜Just for you〜」が収録されている等、 新しい試みが行われている一方、3枚目の「BIG MAMA」では奈良橋陽子作詞/タケカワユキヒデ作曲という、ブレイク時のソングライティング・チームが再現されている。
One for everyone
「One for everyone
Big Mama
「Big Mama
Walking On
「Walking On
2011年はゴダイゴのデビュー35周年となり、5月の大阪でのコンサートでは、シングルのタイトル曲をデビュー曲「僕のサラダガール」から2011年2月リリースの最新シングル「Walking On」まで全曲演奏した。 11月には、コロムビア時代からの映像作品に、東京芸術劇場での「TOKYO 新創世紀」3部作、そしてNHKと日本テレビの番組での映像をまとめた「Godiego Collectors' DVD Box」をリリースした。同月の渋谷公会堂でのコンサートでは、「威風堂々」や「新創世紀」 等組曲を中心とした演奏でファンを魅了した。 12月はミッキー吉野の60歳の誕生日を祝い、マウントレーニアホール渋谷Pleasure-Pleasure で「Mickie Yoshino 60th celebration」が2夜に渡って行われ、ゴダイゴ、ザ・ゴールデン・カップス、EnTRANS、ミッキー吉野ニュー・プロジェクト、チャー等ミッキーゆかりのミュージシャンが終結した。
Godiego Collectors' DVD BOX
Godiego Collectors' DVD Box

 2012年11月は、例年の渋谷公会堂に加え、神奈川でもコンサートが行われた。

「伝説」であるよりは、現在進行形のバンドである方を選んだゴダイゴは、今もまだ歩き続け(Walking on)ている。

TO BE CONTINUED...


本コラム
にある意見や見解は執筆者個人のものであり、メンバー及び事務所の見解を示すものではありません。

 

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